かにゃまるがネットビジネスを始める”きっかけ”となったエピソード(前編)

この記事では、かにゃまるがネットビジネスを始める”きっかけ”となったエピソード(前編)をご紹介しています。

かにゃまるがネットビジネスを始める”きっかけ”となったエピソード(前編)

今日は、かにゃまるがネットビジネスを始める”きっかけ”となったエピソードについてお話していこうかと思います。

僕は今でこそ、このネットビジネスの世界で独立を果たしていますが、このネットビジネスの世界に入るまでは、ホントにやりたいことがなかったのです。。

まず僕がどんな人間か皆さんに知ってもらうために、僕の学生からの生い立ちを順番にお話していきますね。

学生のかにゃまる

学生の頃は、親に学習塾など通わせてもらって、
そこそこ点がとれるようになり、何の苦労もなく有名私立高校に入りました。
高校に入ってからは、学校より友達と遊んでいた方が楽しくて、
ろくに勉強せず、髪を染めピアスも空け学生生活を満喫していました。
そして、帰宅後には遊ぶお金欲しさにバイト生活。。

そして、今度はバイト仲間と深夜まで遊ぶ。
その繰り返しでした。

当然、学校の成績はみるみる急降下。
通知表は見事に棒が並んでいましたw

ホント、テストの点なんて、どうだってよかったんですよね~。
この時は。

そして、高校卒業後はもちろん大学へ進学できるレベルではなく、
そのままどこかに就職するか、短大か専門学校へいくかの3択となりました。

ちょうどその時、ネットという媒体が登場した頃で、
コンピュータ関係の勉強をすれば、将来ウハウハだなと直感したのです。

パソコン

そのコンピュータ関係の入学試験は、何故か満点近い成績をたたき出し、
直接、教師から情報システム化への誘いを受けたのを覚えています。

こうやってみると、頭がいいの?とか思われる方がいるかもしれませんが、
全然そんなことはなく、単純に入学試験が小中学生レベルの問題だったからですw

んで、専門学校に入ってからも僕の相変わらずはとまりません。
遊ぶ金の欲しさが強く、授業の時間帯にバイトを入れ、パチンコ生活。

さらに親の仕送りをも1日でパチンコに費やしてしまったのです。。
最低なバカ息子です。

そんな生活を送り続け、卒業間近。
教師より、出席日数や単位が足りないから卒業は無理だと告げられます。
そりゃ、当然ですよね。
単位をとるより、パチンコの赤点をとっていたのですから。。

だけど、僕の中でフト善人があらわれました。
これって、親不孝なんじゃないかと。

僕は、教師に何とか卒業できるようにお願いしたおしました。
交渉の結果、今日から1ヶ月以内に、この山積みのレポート1000枚と、
明日からは学校にくるようにと。

この条件をのめば卒業さしてくれるとのこと!
それからバイトを辞めることを決断し、学校の通学とレポートをなんとか無事に終わらせることができ、晴れて専門学校を卒業することができたのです。

だけど、コンピュータ関係の専門学校を卒業したのに、Excelやワードさえも使えません。
習得したスキルはブラインドタッチだけです。。

これは、学校で勉強した事ではなく、北斗の拳「激打ち」というブラインドタッチ習得ソフトで敵を倒しながら習得したものですww まぁ、一つだけでも習得できたのが心の救いかもしれません。

サラリーマンのかにゃまる

専門学校を卒業後は地元に帰郷し、コンピュータ関係の仕事に就くのではなく、
簡単で楽そうな工場での製造業務を行う派遣社員となりました。

その工場へは色々な派遣会社が派遣社員を送っている工場で、
他の派遣会社の社員が入り混じっている所でした。

そこで驚いたのは、全く同じ仕事をしてはずなのに給料が違う点でした。
しかも、ボーナスもあるってどうして?なんで?

そんな疑問が消化不良をすることができず、そのことをきっかけに本気で就職先を探そうと決意しました。

ハローワークへ行き、唯一僕のスキルであるブラインドタッチをいかせるところはないかと探していると、コンピュータ関係のお仕事でプラグラミングのお仕事の様です。「賞与3ヶ月、昇給あり」と。

プラグラミングの事なんてさっぱりだけど、やれば何とかなるでしょ感覚で、その会社に問い合わせしてみました。そしたら、入社試験があるとのこと。

まぁ、とにかくやってみないとわからないので、入社試験を挑むことに。

多少専門学校の最後に詰めたレポート1000枚をやったおかげか、なんとか全問埋めることに成功。後で聞いてみると得点はギリギリだったそうですが、無事合格です。

それからその会社の社長と面談することになったのですが、「ソフト」と「ハード」どっちがいい?と。

「なんだこの社長、変態か!SMなら興味ないぞ」と思って言葉を発しようたしたしたところ、初心者なら「ソフト」の方がいいかなもなーと。

よくわからないけど、「じゃあ、それでお願いします。」と。。
それと、趣味は?

ma-zyan

パチンコと麻雀です!!」と。

思わず社長に笑われてしまいました。。
そして、「パチンコやるくらいならプラグラミングやった方が面白いと思うけどなー」。と。

それから入社することがきまり、僕は「ソフト」のSEと呼ばれる職につくことになります。

入社してから5年がたち、そこそこ仕事が出来るようになってきたのですが、何か物足りない感じで一杯になってしまいました。

周りの友達と比べたらそこそこ給料はもらえてるけど、このままの人生でいいのかなとか。もっと儲かる仕事ないのかなとか。ホントに僕がやりたい仕事ってこの仕事なのかなとか。一生この仕事を続けていく自信はあるのかとか。

僕の家系、親族は揃ってみんな営業職です。
僕の家系の血がそうさせるのか営業職が頭から離れません。

僕も同じように営業やっていれば、ガンガン稼げているんじゃないかとか。
もしかしたら、天職なのかもしれないとか。

決意が固まり不動産会社賃貸の営業をするために、
今度は自分の力で上京し、念願の営業職に就くことになりました。

入社してからいきなり営業職についたのですが、
お客様への接客もよくわからい状態だったので、できることといえばお客様の立場に立って親身にサポートすることと、笑顔でいられるようずっと心がけていました。

成約に結び付けることと、大家さんとの広告収入の交渉が僕の仕事です。
だけど、とにかく僕は方向音痴なんです。。

もちろん、カーナビなんてついていない無駄に大きな車でしたし、GPS機能つきの携帯なんて当時はありませんでした。なので、休みの日は自転車で道を覚えるのに必死の休日でした。

ひどい時なんて、迷子になってしまい目的地に車でお客様をご案内することもできませんでした。店長は、そんな僕に「今まで目的地につけず帰ってきたのはおまえだけだ!

と、かなりのお説教をおうけしたのを覚えていますww
そりゃ、当然ですよね。。

それからかれこれ1年がたち、当時僕によくしてくれた店長が退職することになったのです。そして今後は噂できく悪名高い店長がこの店舗を取り締まるということでした。

店長が交代し、遂にその悪名高い店長が僕らの店舗に。。
やはり完全にブラックな人でした。

契約がとれなければ、パワハラはあたりまえ(暴力)。
そして何より酷いことが詐欺まがいの広告をうちだすことも。
僕の店舗には、お巡りさんもしょっちゅうきていたので、何か嫌な予感はしてましたが。。
そして、店長が裁判がどうとか話しをきくのもホント嫌でした。

この事を機に僕はこの会社で続ける意味がないと確信したので退職することになります。
ここで僕が固く決意していた営業職の夢もだんだんと打ち砕かれていきます。

一人暮らし用の家具や家賃、一丁前のスーツなど大金をはたいて上京したにも関わらず、結局失敗して帰郷し自己嫌悪に陥っていきます。

営業職ってこんなものかと!
営業職である親父にそんな事を話していたら、ウチの会社は違うよと。

体罰なんてもってのほかだし、
そんなことあったらコンプライアンス違反だと。

親父と話し込んでいくうちに僕の打ち砕かれていた決意が、
不思議と癒されていき、今まで拒んできた親父の会社への思いがだんだんと芽生えてきました。

だけど、そう簡単に入社なんてできるはずもありませんでした。
今振り返ると遊んでばかりしてきたし、学力もなく当然スキルもない。
さらに入社を目指すには資格取得も必要だと。

そこで僕は決意しました。
「もう、なんだってやるしかない!!」

人の2倍以上の苦労が必要だと感じた僕は、
入社資格の試験と並行して通信の大学にも入学しました。

毎日遅くまで勉強の繰り返し。
本当にしんどかったけど、2ヶ月間でなんとか資格は取得することができました。

大学在学中ではあったのですが、会社側この熱意を受けとってもらえたのか、無事に入社できることになりました。

「これからバラ色の人生間違いなし!!」
単純な僕は何故か凄く希望に満ち溢れてきましたw

そして入社がきまり研修期間がおわると、
親子で同地区には勤務できないとの宣告。

まぁ、仕方ないなと思い新しい勤務先を確認してみると、
「南〇〇・・・」と記載されていました。

しばらく目の前が真っ白になりましたが、
サラリーマンは縦社会、上司の命令は絶対命令というぐらいは
無知な僕でも、それぐらいはわかっていました。

それから2週間後には配属することになっていたので、
引っ越し先の賃貸物件を即探さなければなりません。

休日にはいざ南〇〇の不動産会社へ!
遠方なので物件を細かく選んでいる暇もありませんでした。

とりあえずお風呂があってトイレぐらいあれば生活できるかなと。
若干家が傾いているところでしたが、そんなに選んでいる余裕もないので、
そこに決めちゃいました。

それから、南〇〇の保険営業がこれからの僕の仕事になります。
保険に関しては、親父もインストラクターを過去にやっていたこともあって、
特に不安も感じていませんでした。

そして、今度はまたまた上司から資格取得のご依頼。
今度は、国家試験のFP2級。

まぁ、やるしかないな。。
大学の勉強と並行して国家試験と、さらに保険の勉強。。
そして、休日には実家まで帰郷し部会長への挨拶と近況報告。
そこでは今後の業績も期待され、だんだんとそれが僕のプレッシャーになっていったのです。。

サラリーマン

資格は何とか取得できたのですが、ホントにホントに大変な一年でした。。
それからいつもの様に保険の営業で外回りをしているとき、
なんとなく身体に違和感をかんじはじめてきました。

会社に戻る際にもお客様と何を話していたのかも、いまいち思い出せません。
今までこんな事はなかったので少し不安でいました。

それからは、会社の雑務ではミスばかり。
上司から教えて頂いた事もいまいち思い出せません。

頭の中がふわーっとなって、集中力がかけ、協調性がだんだんと
欠けていってしまいました。

協調性がかけてくると、職場の皆さんへの配慮さえもできなくなってしまいます。
とっても職場の皆さんには迷惑をかけてしまいました。。

それと、周りからみても僕の違和感を感じていたようなんです。
特に目に生気がないようなこともいっていました。
常にボーッとしているような感じ。。

そして、帰宅後には人生で初めての過呼吸、それと胸の動悸。。

それだけにととまらず、身体から次々へと異変があらわれてきました。。
片足が動かなくなることや、血便、そして人生に1回おこるかといわれる粉瘤という病気。

それらを朝方上司に報告し、欠勤して脳神経外科、皮膚科、胃腸科、肛門科などほとんどの診療科はまわったと思います。。

粉瘤に関しては短期の手術ですみましたが、
他に異常なないといった診断でした。。

医師より精神的なストレスの可能性が髙いとのことで、
近くの神経科専門のお医者さんを紹介してもらいました。

そしたら、軽度のうつ病社会性不安障害と診断されたんです。
軽度の記憶喪失や協調性の欠如、身体の違和感、過呼吸や胸の動悸など。

全てはこういった精神的な部分からきているとのことでした。
それから、今の仕事を続けていると症状は悪化してくるとともに、とても危険だということも。

僕は、病気であるあることがわかりすごくホッとしました。
特に、軽度なものでしたが記憶喪失に関してはとても苦しかった。

治療すれば治るものだともハッキリといってくれたことは、ホントに嬉しかったことを今でも鮮明に覚えていますね。それから、医師に仕事を続けていられる状態ではないと判断され休業診断書を手渡され、それから休職生活に入ったのです。

※続きは下記のリンクからご覧ください。
かにゃまるがネットビジネスを始める”きっかけ”となったエピソード(後編)


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